日本語教育の「ちから」

今日、日本語教育学会の評議員会と臨時総会と「日本語教育の未来を拓く」というテーマのシンポジウムがあって、行ってきました。

その席で、報告がありました。

国立国語研究所日本語教育のセクションと人を残すという、法律の修正案と付帯決議というのが衆議院の委員会、衆議院本会議で可決され、今、参議院に回っているのだそうです。今月末には、参議院でも可決されて修正された付帯決議付の法案が成立する見通しとのこと。衆議院でも全党の議員が賛成したそうです。

詳細は↓へ。
http://seigan5000.web.fc2.com/amend.html

これは異例なことらしく、異例なことが実現したのは、短期間に1万2千超の署名が集まったこと、400を超えるパブリックコメントが寄せられたことが大きかったのだろう、とのことです。

そんなこともあって、今日の学会の理事の皆さんはとても元気な感じがしました。日本語教育が今の日本社会に、これからの日本社会に必要だと認識されていること、多くの議員がそう考えて、極めて短い期間に修正法案をまとめてくれたこと、その議員を動かすことができた学会をはじめとした日本語教育関係者のアクションを非常に心強く思うと。

日本語教育の「ちから」、みたいなのがあるのだ、という感じでした。

でも実は、この先が勝負だったりしますね。国研を国の機関にするという案も含めた見直しのために2年の期間が設けられているのですね。この2年でどこまでその必要性、「国策」としての重要性が示せるか。今日の話には「日本語教育は国策だ」ということが国会で言われた、という点も極めて重要だというのもありました。

ま、2年というのは、国研のことだけですが、今後、日本語教育がプレゼンスを高めることができるのか、という点については、なんとなく楽観的な空気があったような気もします。

しかし。個人的には、なんだかもやもやした感じでした。

これから、日本の社会に対して、国会議員に対して、行政機関や企業、広くは「お金を出してる人」に対して、日本語教育アカウンタビリティを構築していけるのか。形式的な「説明責任」でなく、本当の意味でのアカウンタビリティ(「いつでも納得できる説明が可能なシステムを構築・維持していること」的な意味)です。日本語教育をやっている機関やプログラムの存在意義が説明できるのか。目指していること、実際にやっていること、そこにかけているコスト(人的、時間的、金銭的など)の関係を、人々が納得できるように説明ができるのか。コストを増やすことはあっても減らすことはできないのだという説得ができるか。

これ、これからやってみたいと思っていることです。まさにチャレンジ。


以下は午後のシンポジウムのときの話です。

意外だなあと思ったのは、とある研究所(だったかな)の人(若手の女性)が、日本語教育にボランティアでかかわってみたいと思って踏み込んでみたら、これでは生活していけない、なんとか生きていけるようにできないでしょうか、してください、という訴えをした(この他にも2つ、全然別のご意見もあったのですが割愛)ことです。そう思っている人って、たくさんいるのですね。我々はすでに日本語教育の世界の人ですが、その世界に入りたいのに入れない、という立場の人の訴えだったので、新鮮な感じがしました。

「ボランティア(無償)ではいかんのです。専門性を持った人がやらねばならず、そのときには当然お金をもらわなければならんのです。『誰でもできる』というものではないのです。専門性とは何か。それは、ちゃんと教えられるということです。ちゃんと教えるということがどういうことなのかは、皆さん考えてください。(まだまだ続く)」というお答があり、「プロの条件」とは何だろうか、ということをまたまた考えたのでした。「ちゃんと教える」については、また別の機会に書きたいです。授業が始まってから。

今日のところのポイントは、社会に対する働きかけを、具体的な提言やアクションを、本当にするかどうか、ということですね。


【うぞ】