プロの条件とは?
「プロの日本語教師」とは何なのか、備えてなければならない専門性とはどのようなものか、そして、どの程度のものか、考える機会がありました。
このブログを書いている「つぼみの会」の有志がやっている勉強会に参加したときに、ボランティアと「プロ」が話に出てきたのですね。また、「つぼみ」と別の人にも「プロ」について考えを聞いてみたりしました。
そんな中で、「プロ」というのはとても不思議なことになっているのだなと思いました。
日本語教師もそうだと思われてるでしょうが、「誰でもできる」仕事のプロ多いのではないでしょうか。
たとえば、料理人。「料理ができる」人はものすごく多い。しかも、作ったものを自分以外の人に食べさせたことがある人。日本の人口の半分以上が該当するのではないでしょうか。
そしてその中には、下手な料理人よりずっとおいしいものを作る「ただの人」は少なくないはず。だから、腕前の質的なレベルでの区別はなかなか難しい。無理かもしれない。変ですね。プロの料理はすばらしくおいしいはずなのに。だからプロと言えるのだと思うんですが。
じゃあ、「料理が上手なただの人」と「プロの料理人」は何が違うのでしょう。想像するに、免許の有無だけではないはず。
まずは、免許をとるための勉強の過程で衛生やら栄養やらの知識を得るのではないか。それが実際の現場でどの程度生かされるのかわかりませんが。
それから、修行時代に材料を見る目、さばく技術などが鍛えられる。大量の材料を適切に仕入れることができ、下ごしらえが素早く無駄なく美しくできる。もちろん、肝心の調理も。
もしかしたら、この「一度に大量のものを扱える」というのが大事なのでしょうか。プロは「多くの人を相手にできる(そして満足させることができる)」というのが一つのポイントなのかもしれませんね。
しかし、料理は1回食べに行っただけで大満足もできますが、言語教育は1日だけのサービスで満足を与えられません(その都度の満足はありますが、語学学習の満足は別のように思います)。もっと長い時間がかかる。それから、多くの人といっても、それほど多くを相手にできない。実は、10人ぐらいが限界なのではないでしょうか。中学、高校で35人とか40人とかの教室で語学の授業をして効果をあげようというのは無理で、「6年、10年やっても話せない」という極めて明確な結果が出ていますね、ずーっと何十年も(もっとも、文献を読むことはかなりできたりしますが)。
そんなことを考えると、プロの条件として「何人以上を相手に、これだけの期間と時間を使って、このぐらいの成果が出せること」というのが数字で出せるかもしれない。
問題は、そういうふうに書いたとしても、それを検証する方法がなかなか用意できないということですね。だいたい、一人の教師だけが教えているクラスはそれほど多くはないように思う(海外の現場はまた事情が違っていると思いますが)ので、一人の教師が担当した教育の成果を切り取ることは無理というか無意味でしょうか。担当を技能科目で分担するなどで教育を切り分けることができたとして、学習を同じように切り分けて見ることができるかというと、よくわかりません。できるかな。
プロとして必要な条件を、一人の教師の授業の成果から考えるというアプローチはちょっとおいておきますが、この視点は大事かなと思います。
「言語教育には時間がかかる」という点にもどってみます。
そうすると、学習者を前にしたときに、どの程度の期間と時間でどの程度の内容を与えると、どの程度になるかなという「見通しがきく」ことが要件かもしれません。そして、その見通しに基づいて、学習内容を準備できることでしょうか。診断と手当ができる。
そんなの無理か。してないですね、普段。
だいたいが「初級」とか「中級」とかで分けてそのレベルの教科書を使っているクラスに入れるという処置をしておしまいですね。最初はそのぐらいざっくりでも、途中でちゃんと状況をモニターして適切な修正を学習者が納得のいくように提供できる、介入できるということが要件でしょうか。
でも、そういう見通しと診断と手当と修正ができる「ただの人」もいるような気がする。いや。これができたら、もう「ただの人」じゃないですね。
1回きりの授業のことを考えるのでなく、トータルで教育とか学習とかを考えるという仕事がプロっぽいのでしょうか?
【うぞ】