当然の熱心さ

授業のところどころと,最後に「何か質問はありますか」とききます。「授業で扱ったところ」を質問してもらいたいんですが,そんなこと気にもしない生徒たちはいろんなことをいってきます。
先日のこと。
「センセイ,日本人の家へ行って,初めて,何といいますか」
(へぇ〜、遊びに行くんだ) 「おじゃまします」といって入るんじゃない?
生徒「それだけですか」 
(何だか,熱心だなぁ・・・ んん? そうか!【特別な】日本人の家へ行くのね!)
「お家の人に初めて会うときは,挨拶をするでしょう」  
生徒「はい!」 
「はっきりと話して,感じよくしてよ」 
生徒「はい!!」

そのあと「練習」していました。
「初めまして,○○です。どうぞよろしくお願いします。 おじゃまします。おじゃまします。ありがとうございます・・・・・・」
宿題もしてこないし,授業も決して熱心とはいえない,○○さん。きみが「日本語の練習」をしているのを初めて見たよ(涙)

そして,見てたよ,女子生徒といっしょに下校しているところ(笑)。そうかー,「日本人の家」に行くんだねー♪

「授業にその熱心さがあれば」なんていいません。普段,ほかのクラスの生徒と「付き合う」機会がない(できない・作らない)彼ら・彼女ら。 聞くところによると,登校・下校時、辞書片手に奮闘している生徒はほかにもいるらしい・・・・・・

言語学習に“動機”って大切! みんな,がんばって 春はもうすぐ! か!?

【ふじ】

敬語のカタチ

ひところ、「こちらにお書きしてください。」とか「しばらくお待ちしてください。」といった間違った敬語が広く使われているということが話題になったことがありますが、そんなの話題になったか?という人のほうが多いでしょうか。

正しくは尊敬語の「お書きください」「お待ちください」を使わなければならない。「お書きする」「お待ちする」というカタチは謙譲語で、話し手が自分の行為を低くする(へりくだる)言い方なので、相手に対して「〜てください」という言い方はできない、つまり、相手の行為については尊敬語の「お〜ください」というカタチが正しく、「お〜してください」というカタチは間違っていると。

こういう説明を授業で何度もしていると、自動化というか化石化というか、とにかく「お〜してください」というカタチを見聞きした瞬間に、もうダメ、また間違ってるよー、というダメ出し反応をするようになってきます。たぶんそれは私だけではないと思います。駅や電車のアナウンスで「足元にご注意してください」と言ってたり、スーパーの人が「あちらでお支払いしてください」と言ってたりすると、「むむっ」と思うのです。

ところが、「お〜してください」というカタチ自体は間違ったものではないということが、先日わかりました。

あるファーストフード店でコーヒーを飲んでいたときのことです。そこは、大型スーパーの一角を占めているテナントで、スーパーとの間に壁
がなく、売り場とは同じ空間にありました。よくあることなのでしょうが、ファーストフード店はスーパーの開店時間より早く開いているので、私がコーヒーを飲んでいたのは、スーパー開店のちょっと前という時間でした。店員さんがあちこち動いて準備しているのが見える状態です。店内には、開店準備の確認と、開店時間が近いことを知らせるアナウンス(録音)が流れていました。朝礼とかラジオ体操とかはしないんだ、などと思っていると、

「気持ちよくお客様をお迎えしてください。」

と言ったのです。即座に「あー、また間違ってるよー。しかも、録音で毎日やってるんだ。ダメじゃん。」と思いました。

しかし、です。「お迎えしてください」かよー、と2、3回反芻してるうちに、実はこれが正しいということに気づきました。

ちょっとショックでした、これは。いかに自分の頭が固くなってきているか。

教科書の範囲にしばられて、認識の範囲が狭くなってしまっているということかもしれません。この「お客様をお迎えしてください」という使い方は、決して教科書には出てこない、出さないものだと思います。国語の教科書にも載らないんじゃないでしょうか。しかし、この使い方は全く正しい。(野暮ったいといいますか、長ったらしくなるので、どうして「正しい」かは書きません。ご意見お待ちしています。)

敬語はカタチだけで判断してはいけないのだ、誰が誰に対して、誰の行為について言っているのかを理解しなくてはいけないのだ、と思いました。・・・これって、「教科書どおり」の基本的な話ですね。

あともう一歩踏み込むと、敬語は、カタチと使い方が「正しい」ことが重要なのではなくて、敬う気持ちが伝わっているかという点のほうが大事だということになってくるのですが、気持ちだけでもちょっと足りない。なんて言い出すと、敬語、待遇表現、ポライトネスの話にも広がりそうなので、勉強不足もあり、またレベルの違う話でもあり、機会を改めたいと思います。


【うぞ】

2人も泣かしちゃったよ

先月、ある研修(5日間)を担当しました。外国語指導助手(ALT)・国際交流員(CIR)として日本に来ている人たちの日本語教育実習です。わたしには「講師」という役名がついていましたが、仕事の内容はファシリテーションだな、と思って行きました。
日本語能力試験の1〜2級レベル以上の人々。国籍や母語も一昔前と違って多様。約60名の研修生が6つのグループに分かれて実習。ある程度準備してきた教案と教材にわたしがコメントし、練り直すべきところは練り直し、1人40分の模擬授業を行ないます。生徒役は同じグループの研修生。みなでコメントし、反省点を話し合います。

いろんなことを考えました。
・ 生徒役がうまい!
ALT(小中高校で普段英語などを教えている)だけじゃなく、CIRも。例えば「ます形」(「行きます」など)を練習しているときに、教師役研修生がうっかり「行く」などといってしまうと、生徒役はすかさず「センセイ、“いく”は何ですか?」と質問。教師役をハッとさせたり。これは日本人の学生たち(日本語教育養成課程の)に見せたかったです。これは日本へ来て母語・母文化を客観視することに慣れているからこそ。
・ そのお辞儀はどこで習得したのか?
両手を腿の前でそろえ、小腰をかがめて、2〜3回頭を下げながら「あ、わかりました。ありがとうございます」!! 国へ帰ってだいじょうぶだろうか? ヘンな人といわれないだろうか。ちなみに彼は職場の人と打ち解けようと、ゴキブリのおもちゃを持参し、熟考に熟考を重ねた人選の末「この人なら笑ってくれる」という人の書類の間にそのゴキブリを忍ばせておくのだそうな。
・ 「ほめ方」を知っている!
普段生徒たちを叱ってばかり(いや、ほめたいんだけど!)のわたしは反省しきり。ダメなところは指摘するけど、それ以上に工夫されているところ、よく考えられているところをきちんとほめる。上手にほめる。

最後の総括(これもグループ全体で話し合う)で、研修生の一人が「今まで教える仕事が自分にできるとは思っていなかったけれど、国の子どもたちに日本語を教えてみたいと思うようになった」といったことはうれしいことでした。それからおもしろかったのは、よい授業にするために大切なことは、十分に準備することはもちろんだけれど、生徒たちに合わせて「柔軟性」を持ち「臨機応変」に、時には「適当」に授業内容を変えていくこと、とほぼ全員が考えたことです。教師としては当然の「必須アイテム」なのですが、いつでもものごとを「はっきりと」「曖昧はダメ」という某国の人々がいうとちょっと笑えます。

そんな5日間の研修で、わたしのグループでは2人も「泣き」が出ました。コーディネータにいわせると「前代未聞(笑)」だそうです。いやはや。厳しくして泣かせたわけじゃないですよ。でも、ファシりがうまくできなかったってことなのですね。わたしもまだまだです。
あと、「お役所の施設」では毎日叱られました。いわく「教室でお菓子を食べていた」(すみません、わたしのグループです)。「机に腰掛けていた」(わたしです)。「服装・態度にモンダイありの人がいた」(スーツじゃなくてすみません)・・・・・・ 帰京して何人かに「さもありなん(=あなたがお役所に気に入られるわけがない)」といわれました。あーあ。

【ふじ】

未来館でのコミュニケーション

お台場の日本科学未来館というのに行ってみました。

自分で操作できる展示や、実演やシアターがいろいろあって、なかなか工夫しるなという印象。実演や操作する展示の関係かもしれないけれども、それとはまた別の考えからか、コミュニケータというスタッフがたくさんいたのも、とても印象的。万博的イベントではコンパニオンとか言っていたのかもしれない。展示フロアにいていろいろと説明してくれたり、実験してみせてくれたり、質問に答えてくれたり。理科系の社会でも「サイエンスカフェ」とかがあって、一般の人に通じる話し方をすることが大事だという動きがあるようなので、その流れなのかな、とも。

コミュニケータは、もちろん、日本語で話します。

来館者にはけっこう外国の人、家族連れがいたのだけれども、彼らには話しかけてなかったかもしれないです。来館したほうも質問しなかったでしょうから、ある意味、自然な感じではありました。

「あ、外国人だ。」と思うと、日本語で話しかけにくいんですかねー。なんかもったいないような、お互いにとって。どんな見た目の人でも、とりあえず、日本語で同じように話しかけていいんじゃないかなと思いました。特に、子供は、けっこう日本語わかるみたいでしたから。

今度、未来館に行ったら、コミュニケータの人に聞いてみます。


【うぞ】

日本語が亡びるとき、どうですか

日本語教育をやっている者として、読んでみました。

水村美苗日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(筑摩書房

本の内容についてはあまり書きません。「亡びる」の意味することも書きません。読んでください。ここではとても個人的な感想を。

この本、おもしろいです。

世界のいろいろな国、言語の人たちを相手に仕事をしている我々ですが、日本語を学ぶ人たちにとって、日本語はどれだけ価値があるのか、改めて考えてしまいました。とりわけ、大学・大学院の学生、そしてそこに入ることを目指している学生たちに日本語を教えて、さて、彼らの努力がどれだけ報われるのか、と考えずにはいられませんでした。

いまや<叡智を求める人>は英語で書かれたものを読み、叡智を積み上げるには英語で書かなくては認めてもらえない世界になっているといいます。確かに自然科学の分野を筆頭にそういうことになっているようです。文科系の分野にしたって、最先端の理論、研究の多く(もしかして全部?)は英語で書かれているように思えます。というか、英語で書かれているからこそ世界で読まれるわけで、そのことによって最先端になれる。読まれなければ最先端になりようがない、という話は『亡びるとき』にも出ていました。カレツキというポーランドの経済学者の話です。ケインズより3年も早く『一般理論』にある原理を発見したのに、ポーランド語で論文を書いていたために、人々に読まれることがなかった。2年後にフランス語に訳したけれども、それでもその1年後にケインズが英語で書いたものが世の中を変えてしまった。結果、カレツキは「英語で書かなかった学者」として世に名を残したという話。

ノーベル文学賞にしたって、英語に翻訳されているからこそ、川端や大江の受賞があったということです。つまり、日本文学にノーベル賞が与えられたことはあっても、日本語の文学に与えられたわけではない、ということですね、正確に言うと。

英語でない言語で何ができるのか、という時代だと。

『亡びるとき』の主張は、日本語を護るためには、国語教育だ。国語教育の中で近代文学をもっともっと読め、というものです。そして、もう一歩踏み出してもいるのですね。

>>>引用>>>>>>>>
さらには日本語を<母語>としない人でも読み書きしたくなる日本語であり続けること、つまり、英語の世紀の中で、日本語で読み書きすることの意味を根源から問い、その問いを問いつつも、日本語で読み書きすることの意味のそのままの証しとなるような日本語であり続けること―そのような日本語であり続ける運命を、今ならまだ選びなおすことができる。
<<<<<引用おわり<<<

日本語教師として、この本がおもしろいと思う理由は、この主張が偏狭な愛国心みたいなのから出てきたのではなく、いろいろな国のいろいろな言語を母語とする、世界の文学者との交流を経て、日本文学(とりわけ近代文学)の価値を改めて見出し、その価値を保つことが、世界の、人類の文化に貢献するという方向に向かうからです。

我々が日々教えている日本語にどれだけ学ぶ価値があるのか、ということを、「コミュニケーションの手段」以上の価値は何か、ということを、日本語教師だから、考えなくてはいけないと感じます。それは、日本語を学ぶこと・教えることの価値(日本語の価値とは別もの)の見直しにもなるはずですし。

といった話から思うことはいろいろとあります。

まず、昨日のカイさんの話にあったノーベル賞の受賞講演を日本語で、というのは実に興味深い。英語の世紀の中で、あえて日本語でノーベル賞の受賞講演。世界の人が何か思うか、別に何とも思わないのか。とくに非英語圏の人はどう思うのでしょうね。「やっぱり日本人は英語が下手だから」というのは論外として。

それから、以前、怪長さんのコメントにありましたが、国語教育の何かを日本語教育も取り入れたらどうだろうか、という話。初級から文学をうまく取り入れていけないかと思います。これまでにも、いろいろな取り組みはあったのだろうと思いますが、『漱石で学ぶ日本語・初級』みたいな教材あってもよさそうです。もちろん、中級、上級まで続くシリーズもので。別に紙でなくても、ゲームみたいなメディアで作ってもいいと思いますし。『亡びるとき』に「お馬鹿さんのクラスdumb class」の話が出ています。日本語の教科書は、ここで紹介される「誰が書いたともわからぬ、生徒たちと同い年ぐらいの主人公が生徒たちと同じような日常生活を送っている物語―しかも生徒たちが理解できる文章で綴られた物語だけが入っている教科書」ばかりかもしれない。

日本語教育の研究はどうなのでしょう。日本語教育だから日本語で書いて日本語で読むのだ、というのはちょっと飛躍が大きいような。ここに日本語で読み書きする必然を説明する論理があるでしょうか。「必然」でなく「必要」を訴えることはできるのかもしれません。しかし、その訴えは<叡智を求める人>を説得できるでしょうか。

などなど、他にも話したいことはあるのですが、書くのはこの辺で。
みなさん、『亡びるとき』どう思いますか?


【うぞ】

ノーベル賞の受賞講演日本語で。素朴な疑問に答えよう!

 ノーベル物理学賞受賞が決まった益川敏英京都産業大教授は、受賞講演を全編日本語で話すとのこと。
 新聞などで「異例」と言われていますが、問題なんでしょうか?

 話は変わりますが、先日電車の中で4,5歳の女の子とその親と交わしていた会話が印象に残りました。
 「どうして、ドアを開けたのに閉めちゃうの?」
 電車って(寒い地域の冬を除けば)停車するごとにドアが開きますね。その時の電車は乗客が少なく、誰も降りない駅がたくさんありました。わざわざ自動で開けて、開けたことが報われない(?)まま、また閉める。この繰り返しが不思議だったようですね。
 その時のその子のお母さんの返答は、
「本当だね。どうしてだろうね?」
 4つ目の停車駅まで4回この繰り返しがありました。
5つ目の駅で
「きっと、誰か降りるかなあって思って開けてくれたんだよ。それで、誰も降りないってわかったから閉めるんじゃないかな?」
 その子は、あまり納得していませんでしたが、次の駅で一人降りる人がいて、
その後ろ姿を見つめながら
「今、降りたよ。閉めるのかな?」と。
そしてドアが閉まった時に笑顔を見せました。そして一言。
「自分で開ければいいのにね!」

 まあ、そうですよね。
 安全性やサービスといった観点からいくらでも説明はできると思いますが、自分で開ければいいんですよね。荷物が多いとかいろいろな事情で開けられない人がいたら、近くの誰かが開けてあげればいい。
 大人になると、ふっと思いついた疑問を口にできる相手が少なくなるんですよね。この女の子と同じことを“大人”が言ったら、
「何言ってるの?」と言われるか、
グライスの協調の原理じゃないですが、何か含みがあるんじゃないかと疑われそうな気がします。

 日本語の勉強はどうして教室なの?
 どうして先生が要るの(居るの)?
 どうして直接法なの?
 どうして教科書を買わなきゃいけないの?
 どうして・・・?

たまにはこんな質問に対する答えを、“説得モード”で回答するのではなく、
一緒に考えてみるのもいいんじゃないかと思います。

 で、一緒に考えてみませんか?
 「どうして母語で講演しちゃいけないの?」

(「いけない」とは言われていませんが、異例と“騒ぐ理由”は、珍しいだけじゃなく、何か含みがあるような気がしたもので)

 「どうして英語なの?」
 「どうして日本語じゃいけないの?」
 「どうして外国語で話さなきゃいけないの?」

日本語を教えている皆さんはどうお答えになりますか?

 「どうして日本語を教えているの?」
 「どうして国語の先生と日本語の先生がいるの?」


【カイ】

国語教育で「日本語」の試験

月刊の『日本語学』(明治書院)という雑誌の2008年11月号は特集が「国語の試験問題」というものです。

ぱらぱらとめくってみたのですが、「評価評定と国語の試験」という記事(茨城県教育庁高等教育課の石井純一という人が著者)の中におもしろい話がありました。この記事では、いくつかの高校の先生の実践例が紹介されているのですが、その中に、茨城県が進めている事業「ステップアップスクール」というところの話がありました。この事業、記事の説明では、

「中学時代の学習につまずきがある生徒や、学習意欲にやや課題がある生徒たちに、基礎学力の定着を図るためにはどうすればよかという視点で、指導法や教材の開発などの研究や授業形態の研究を行う」

ものだそうです。で、この報告に出てくる先生は、生徒たちの「聞く力」が弱くなっていると感じ、日本留学試験の日本語聴・読解問題を活用する実践をしたということ。授業でも扱い、定期試験にも出題したとありました。で、結果を分析したところ、やはり「生徒たちの「聞く力」に課題が伺える結果となった」そうです。

これ、いい話だなと思ったのですね。もっと多くの高校で同じような実践をして、どうせなら、高校生も本番の留学試験を受ければいいのに、と思います。決して「課題のある生徒たち」だから留学試験が合っているというのではないはずです。いわゆる進学校でもぜひ取り入れるべきだと思います。少なくともやってみて、先生たちの所見でなく、受験する当の高校生達から大々的に試験を評価してもらったらいいと思います。

今回の『日本語学』の他の記事で取り上げられて検討されている試験問題は、主として文学作品を素材にした出題だったのですが、これはある意味「国語が国語たる所以」ですから、なくす必要はないと思うのですが、PISA型の能力などを無視できない状況になっているようでもあるので、世界基準の言語能力試験を目指す方向にして、「国語」も「日本語」も取り入れた問題をセンター試験で出してほしい。

で、いっそ国語も社会や理科のように選択式にして、留学生だけでなく、古典は辛いけれども、日本語の能力は高いという受験生にも受けやすい試験にしてはどうでしょうか。もしかしたら、帰国子女に限らず、センター試験よりも「留学試験」の内容のほうが大学入試として適切だと感じる高校生は多いのではないでしょうか。ぜひ、全国的規模で調査をしてみてほしい。「留学試験」という名前だと、日本人学生は受けられないですし、将来的にセンター試験に一本化されたりしないでしょうか。「外国語としての日本語能力」としては、日本語能力試験がありますから、大学に入るための試験であれば、センター試験でいいじゃないですか。暴論ですけど。


ちなみに。
記事にあった実践を詳しく知りたいと思って「ステップアップスクール」で検索してみたら、これは茨城県用語ではなく、一般名詞として使われていて、全国的に展開されてるのですね。通信制とか定時制とかサポート校とか、フリースクールとかを含む、ある種のカバータームになっているようです(茨城県のは教育庁のサイトを見ると「学力向上ステップアップスクール」という文言になっていました)。


【うぞ】